はじめに
前回のブログから約2週間が経ちました。その間、私は高齢者として命の継続と次世代への遺志について考える時間を持ちました。
この世に存在することの危うさと、何か次の世代に残すことができるのか。私なりに心に響いたステーブジョブ氏の言葉を思い起こしながら、改めて高齢者の死生観を再考してみたいと思います。
目次:
- 命の継続とその不思議さ
- 遺したいもの―次世代への遺志とは?
- 高齢者の生きる意味を見つけるために
命の継続とその不思議さ
私たちが生きていることは、宇宙の時間スケールにおいてはほんの一瞬の出来事です。
しかし、地球上の生物はそれでも脈々と続いています。種の継続が何世代にもわたって行われてきた不思議さに気づくと、自分の存在がいかに小さな存在であるかを感じずにはいられません。
この命の不思議さは、私たちが宇宙に存在する「大いなる何かの力」の一部であると考えることもできるでしょう。
遺したいもの―次世代への遺志とは?
私たちは一人の人間としてこの世に存在するだけでなく、何かをこの世に残すことができるかもしれません。
ステーブジョブ氏の言葉に感銘を受けましたが、彼が遺したように世界を変えることができる人である必要はありません。
身近な人々への思いやりや愛情、地域社会への貢献など、小さなことでも次世代への遺志となるものはたくさんあります。
高齢者の生きる意味を見つけるために
高齢者として命の継続と次世代への遺志を考えることは、生きる意味を見つける手がかりとなります。
自分が過ごしてきた時間を振り返り、これまでに積み上げてきた経験や知識を活かして、周囲の人々に寄り添いながら生きることが重要です。
高齢者だからこそ持つことができる貴重な視点や知恵を、次世代に繋げていくことができるのです。
まとめ
高齢者としての死生観を再考してみると、命の継続という不思議さに気づき、次世代への遺志を持つことの大切さを感じます。
ステーブジョブ氏の言葉が心に残り、自らの存在とその意味を見つめ直す時間を持ちました。
私たち一人ひとりが小さな存在であっても、何かを残すことができる。その遺志を持ちながら、高齢者としての生きる意味を見つけていきたいと思います。